真綿の季節(下)-czasu w wata-2017
- clouds6
- 2024年2月16日
- 読了時間: 24分
二十九.「さ、引き止めて、悪かったね。もう、行きたまえ」城主はそう言ったので、一礼をしてからその部屋を後にした。僕はほっと一息をついた。なぜなら、ちょうど雨が降り出したときに僕の右足小指の人魚から水がとくとくと流れ出したような気がしたからである。僕の右足の黒い足袋は小指のほうから中指の辺りまで濡れてきていたから、僕はそれが城主にバレないか、はらはらしていたのである。さて部屋を出ると、部屋の前の壁際に胡座をかいて待っている人事浪人の姿が目に入った。口には何かの草がささっており、目は遠くの空か鳥かを見つめているようだった。僕を見とめると、急に人懐こい笑顔になった。「おっ。終わったかい?話がなげぇんだよな、アイツ」そう言いながら、この長身で、カールの長髪を後ろで簡素に一つにまとめた男は僕に近づいて来た「や、俺は、五右衛門。先月から此処で世話になっている」と右手を出す。(城の中が、戦だ?)城主の先程の言葉を思い出しながら、僕は笑顔で右手を彼に差し出した。「俺は、」と言いかけてから、ふと気がついた。僕の名は、なんだ?そして唯一、自分が知っている、剣の名手らしい、素敵な名前を思い出して、言った。「俺の名は、無限、ムゲン。」昨日、荒野に描いた八の字を思い出しながら、考えた。無限、そう。僕はこの物語が始まった荒野に僕の名前をサインしたんだった。何も、偶然など、ないのさ。そして硬い握手を交わした。
三十.「引越し、大変だっただろう?君は、割と遠くからやって来たみたいだから。」彼は言った。実は前の晩に呑んだくれて自分では一ミリも動けず、迎えに来て貰った。引越し作業が面倒で、何を持って行けばよいのか決めかねていたから、大変良かった、と話すと、彼は豪快に笑って、「君、面白いね。」と言った。(そうだ、結局持って来たかったものなんて、特に何もなかったんだ。この剣以外には。そんなの、分かり切ったことだったのに、以前の僕は、一体何を躊躇していたのだろう?本当に僕に必要なものなんて、実はそれ程多くはないのさ。しかも大抵、自分に本当に必要なものなんて、往々にして自分では分かっちゃいないのさ。それに、本当に必要となれば、そのときには本気で手に入れればいい。)僕は五右衛門のことが気に入っていたし、また単純に人から「面白い」と言われることが好きなので、大変満足して、彼が城中を僕に案内している間、ベラベラと適当な面白い話をして彼を笑わせた。また、鳥の巣箱をつけた木のあるとてものどかな庭や、急な石積みの坂道を歩きながら、僕らがどんな風にして剣の道を歩んできたのかをお互いに詳細に話した。同じ志をもつ人間と話すのは、実に何年ぶりか。久しぶりに、清々しい男とこうして同じ職場で働けるとは、なんて自分は幸運なのだろう?しかし昨日おとといの出来事については未だ誰にも話す心持ちにはなれなかったので、二人とも無言の間には、部屋の隅に巣を張り色々なものを引っ掛けている一匹の蜘蛛のことを、とりとめもなく考えた。(今じゃあいつが家主だな。僕の元の家には、一匹の蜘蛛が住んでいる。蜘蛛は家を掃除しながら守ると聞いたから、これもちょうどいい。ああ、なんでも丁度良くなっているものだな…。)
三十一.しかし僕は突然ハタと立ち止まった。何か非常に大切なことを忘れていたではないか。僕は一心不乱に両の手でポケットの中を弄った。「あった!」右のポケットからは、一塊の黒炭が、左のポケットからは、ちえが最後にしていた紫陽花の簪が入っていた。五右衛門も同じく立ち止まり、事の始終を見ていたが、僕がそう叫ぶとほっとしたように笑って、「おい。女子かい?」と問うた。僕はちゃっかり彼女の簪も持って来ていた。(己、なかなかやるな)僕は自分自身を褒めたい気分だった。酔っ払いながらも、悲しみのどん底の中でも、本当に大切なことをいつも心だけは忘れないで居てくれるのだった。
三十二.「引越しの餞別だよ」僕は彼に答えた。そして、ふと、右足小指に目をやった。(そう。ここに一番大切な土産がある)さきほど濡れて足袋の黒い部分がさらに墨のように黒く島のようになっていた部分は、もう乾いていた。(僕の人魚は、泣いていたのだろうか?わからない。元気だろうか?)僕は最後に海底で見たガラスケースに入れられた人魚のミイラのことを思った。すると、またあの音楽が頭の中に流れてきた。僕は、このピアノの音をも何一つ残らず覚えていたいと一瞬思ったのだった。しかし、次の瞬間にやはり、違う、僕が本当に出会いたかったのは、ずっと探してきたこの人魚であって、この音楽に僕が惹かれて水溜りの中に落ちたのは、この音楽こそが僕の人魚に出会う手段だと、僕が知っていたからなんだ。だから、僕の右足小指についているこの人魚の尻尾と、ちえが最後にしていた紫陽花の簪、そして大蛇が壁のなかで固まった結晶であるこの黒炭の塊。これらがあれば、どんなことでも乗り越えられる気がした。すると、今度はどこからか現実の世界から、ピアノの音が聞こえてきた。小さい子が練習するような単純な音の羅列。ドレミ、ドレミ、ドレミファソファミ、ソファミファソドミ、だんだんと複雑につづく音の羅列は、列車のようにどこまでも続いていくようだった。
三十三.「紫陽花なら、ここの城の西側の長屋の庭にも沢山咲いているぜ」と五右衛門は、慰めるように言った。「昨日、額紫陽花が咲き始たようだ。庭師浪人が言っていた。」「庭師浪人?」「ああ、城主が言ってなかったか?俺ら浪人は、あんまり本業の仕事がないから、皆副業をしているのさ。給料がたとえ同じでもな、皆暇にしているよりかは、何かしら働きたいのさ。」「人はリスクよりは、退屈に我慢できない」僕が何処からかの受け売りを言ってみると、彼はくるりと半回転して僕と向かい合わせになった。「なあ、僕は君に、いくつかの同意書にサインをして貰わなきゃならない。職務内容、何がいいかい?料理、洗濯、掃除、庭師、おっとこれはもう埋まってるね、あとは、語り部、観光客道案内、茶淹れ、郵便担当、それから、経理事務もある。新しいポジションだけどね。」僕は自分の剣がまだ左に差さっているかを左手で無意識に確認した。「...。そうだな、どれも、面白そうだね。やったことのない事を覚えるのは、心弾むものだよ。」すると彼は人懐こい向日葵のような笑顔で、こう言った。「その通りさ!どんな仕事からでも、道は通じているものさ。」そして僕の肩をポンとたたいた。そして、二人は長屋の紫陽花畑へと歩いて行った。
三十四.長屋の紫陽花畑は、城から少し離れた、なだらかな坂の上にあるらしかった。その坂道を登りながら、二人は沈黙していた。子供が練習しているような音の羅列は、少しずつ早く、また難解になり、緩急がつき、また大きく鮮明な音になっていった。「姫は上達がお早い」五右衛門は僕にではなく、自分に言い聞かせるようにして言った。
三十五.彼は少し考え事をし始めたようにも見えたので、僕は黙って辺りの風景を広く見渡した。PIANO?新しい楽器だろうか?そしてまた、聴いたこともない音楽だ。水溜りの音楽といい、天井の音楽といい、最近のこの国における音楽は、急速に発展しているらしかった。坂の真ん中で、少し左側にカーブになっているところに差し掛かると、右手には青青とした竹林の中に真新しい茶室が立っている。その前庭にも、紫陽花が咲いており、今年初めてお目にかかれたものだから、僕はしばらく見とれていた。ピアノの音に混じって、今度はメトロノームらしき音まで聞こえてきた。しかしその音はまた暫くもすると、段々と早くなり、時計のチクタクという音に変わっていた。すると、どしん!何者かが僕の右膝にぶつかった。見ると、白い兎である。しかし、何かしらがいつもと違う。無論、白兎を最後に見たのは随分と前のことであったから、その間に彼らは彼らなりの文明開化を経てこのような姿になったのかもしれなかった。ここでの全ては僕が知らない間に、急速に発展しているようだった。「間に合わない、間に合わない!お茶会に、間に合わない!!おやすみ子兎、聞きすぎちゃった!」懐中時計を手にしてシルクハットを被り、黒のチョッキに赤い蝶ネクタイをしたその白兎は言いながら、坂の上から駆け下りて来たらしかった。そして彼から見た左手の茶室に急いで入り、カタンと襖を閉めた。すると、茶室の表札が明るく光だし、「MR只今営業中」という文字が浮かび上がった。「MR?」僕は五右衛門にそれとなく聞いた。「ああ、新しい茶室でね。MACHA REPUBLIC、の頭文字さ。抹茶共和国。都のお茶を西洋風にアレンジしたものでね。COFEEも飲める。あとで行ってみないか?」僕はもはやそのくらいのことで動揺しなくなってはいたが、何故かこの「MR」という文字が気になり、ひどく懐かしくすら感じていたのだった。すると茶室の裏側にあるらしい小さな池の中から、蛙が叫ぶのが聞こえた。「たまには、逆立ちしてごらん!全ては、真っ逆さまなのさ!ゲコっ」
三十六.しかし、こんな事くらいで動揺する奴かと誤解をされるのも億劫であったので、僕は五右衛門には何も言わず、彼の思い詰めたような横顔をチラと見ただけで、あとは何事もなかったかのように、二人で坂の最後の部分を登り続けた。坂の最後で、彼がほっと息をつき、「ここだよ。」とまた元の人懐こい笑顔で僕に言うので、僕はそれを機に「このPIANOは、誰が弾いているのだろう?」と聞いた。「あの城主の娘、マコ姫さ。」「マコ姫…。もしかして、もうすぐ十歳になられるという、お姫様かい?」ちえとの会話を思い出しながら僕は聞いた。彼はそのままの笑顔で答えた。「そうさ、そうさ、Princess Mako。彼女は若干変わっている、しかしとてつもなく尊い美しきお姫様さ。しかし、彼女に関して言えば、君に役目は無いよ。彼女の護衛は、この城で一番目と二番目に剣の腕が立つ奴と、決まっているのさ。城則でね。」彼はそういうと、僕にウインクをした。片目だけを瞑る。どういう意味で、彼は何故そうしたのだろう?「実は、僕も初めて姫にお目にかかってから、この最強のポジションにどうしても付きたくてね。申し込んだんだが、駄目でさ。なんせ競争率が高過ぎるのさ。しかし、君はどう思う?武士として、ひとつの最も美しく尊いもののために、自分の全生命を懸ける。そういう対象を見つけられるということがどれだけ幸福なことか、ということについて?」僕は彼が指差した母屋の左側に広がる紫陽花畑に目をやりながら、ちえのことを、そして今この右足小指についている人魚のことを、想った。
三十七.ちえとは紫陽花が綺麗な季節に出会った。彼女は寺子屋で算数を教えていて、寺子屋の他の先生は皆男性だったし、彼女は特別美人ということもなかったが、何よりも人に教えることがとても上手く、また人の良い所に注目をし、そこを必ず褒めたので、生徒はもちろん、他の先生や生徒の家族に至るまで、彼女は人気があった。人一倍気を遣いときには先回りをし過ぎて空回りをしてしまう傾向もあったがそのような面も、結局は彼女の他人への奉仕精神に基づいていることを、少し彼女のことを知っている人ならば、すぐに察することが出来たし、またその空回りを自分でも気がついていながら、さわやかに欠点として受け入れ、往々にして自分自身と向き合う、真面目な性格であったから、そういう欠点をも含めて、彼女は愛されていた。一番手っ取り早く彼女の性格を描写する方法は、こうだ。彼女は小さい頃に、背中に小さなかすり傷を負った。鉄棒から落ちたのよ。彼女は笑いながら言った。しかし、彼女はそのことを、僕以外の誰にも言わなかった。二つめ。彼女は、よく雨に濡れた。彼女は、傘だけに関して言えば、たいそう忘れっぽい性格であったのかもしれない。しかし、それだけではない。彼女は、いつも、わざと人に傘を貸した。どのようにしてそんなことが出来たのか、僕にも分からない。ただ、お陰で彼女の生徒が雨に濡れることは滅多になく、そして彼女は、帰り際に雨の中を小走りで駆けることになった。恐らく、彼女のその奉仕精神は、彼女が幼い頃から抱かざるを得なかった小さな罪悪感と、僕と出会う4年前に恋人を亡くし、それを少なからず自分の責任のように感じていることが関係している、と僕は思っていた。しかし誰も彼女の献身や明るさは本来的に備わっているものと信じて疑わなかったので、僕は自分だけが彼女の秘密を知っていて、また、自分だけが彼女をその場所から救い上げることが出来るのだと信じて、ある行動に出ることにしたのだった。それは、つまりこういうことだ。彼女が、僕と一緒にならなければ、彼女の罪悪感が刺激される。そういう状態に持っていくことだった。すると彼女は、僕のことを四六時中心配して、やがて世話を焼くようになった。そこで、僕は自分の傘で、彼女が二度と雨に濡れてしまわないようにしたのだった。
三十八.少しぼんやりとしているうちに、PIANOの音は止んでいて、あたりは静けさに包まれ、風の音だけが聞こえる。そしてまた、僕の右足小指からじわじわ水が染みてきた。人魚については、どうだろう?恐らくこの人魚に出会ったのは、夢の中であった。夢の中?ではこの僕の右足小指として今もう泣き始めている僕の人魚は実在しているのか、あるいは…。すると紫陽花畑の中をガサガサと動く白いものを見かけた。「傘を忘れちまったよ!傘傘。」よく見ると先ほど見た白兎が今度はサングラスをかけ、四葉のクローバを咥えて今度は母屋の方に駆けていく。しかしハタと立ち止まりこちらを見た。僕らは目があった…はずである、あちらがサングラスさえしていなければ。そして懐中時計を見ながらこう言ったのだった。「試験時間、あと十分!」そしてくるりと今度は母屋とは反対方向に向き直し、紫陽花畑の向う側に消えていった。試験時間?これは何の試験だ?博士論文を書くのに、時間制限など、あったっけ⁇僕が混乱していると、向こう木に止まっていたオカメインコがこう言った。「何にでも時間制限があるのさ!無限さん!」
三十九.僕は紫陽花が風に揺られてその上空でますますさまざまな色に混ざり合うのを目の当たりにしながら、チラと左側に立つ五右衛門の横顔を見上げた。すると、五右衛門はまたいつもの笑顔で僕を見下ろした。彼は瞳の奥から、何でも聞いてごらん、というような優しい光を約二秒間放ったので、僕は仕方なく聞いた。「あそこに、兎が居なかったか?」すると彼は少し満足気に答えた。「ああ、もちろんだよ。なあ、あれは、一般的に言って、白い子兎さ。」僕は少し安心して、また少し悲しくなりつつも少しだけ口角をあげて微笑み返した。「なあ、僕に聞いても、聞かなくても、どちらでもいいんだぜ。あれは、白い子兎さ。ふふ。言ってもいいかい?さっき坂を駆け下りてきたときは、バニーガールの格好をしていただろう?で、今回は、服を脱いでいたよな?つまり、ただの裸の白い子兎だったってことさ。」僕は、何かを聞こうか聞くまいかをまだ迷っていた。彼と僕は、もしかしたら、同じものを見ていたのだろうか?しかしそんな単純な問いかけをするのはあまりにも、武士らしくないのではないか。「ハハハ!!あれは白い子兎、それでいいじゃないか。ただ、君は僕と結構似ているのかもしれないね。白い子兎、それ以上のことは、君の好きに見ればいいさ。あ、それからな、自分にだけ特別な何かが見える、なんて、思わないほうがいいぜ。さ、それより君は急いだほうがいいんじゃないのか。」僕は五右衛門が僕とそこそこ似ている風景を見ている人物だと知って、内心狂喜したが、試験時間があと十分しかないことを思い出して、言った。「そうだよ!!君、もうお茶会に行っている時間はない。ごめんよ。ルール違反かな?それより、さっきまで鳴っていたPIANOは、どこにあるんだい?」
四十.五右衛門は長い腕を胸の前で組んだ姿勢のまま、くるりと半回転して長屋の方を振り返った。続いて、僕もゆっくりと振り返った。はて。この時代の長屋というのは、こんな感じの建物だったかな?大体、僕は長屋をいうものを知らない。むしろ、それは、簡素な二階建てのプレハブ小屋のように見えた。「さ、急ごうじゃないか」五右衛門は意を決したようにそのプレハブ小屋に向かって歩き出した。僕は彼の大きく長い背中を目で追いかけながら、草がぼうぼうに生えている中に咲いているタンポポや白つめ草や勿忘草などを踏みつけてしまわないように、さっきの子兎のように時々ぴょんぴょんとはねながら彼の後を追った。プレハブ小屋の右側には、これまた簡単なスチールの階段が申し訳なさそうについていた。限界までに簡素なので、かえっていさぎが良い。きっと僕もこれからはこのように説明をするだろう。なにせこの物語は果てしなく続く僕の物語なのだ。
四十一.こつこつと音を立てながら、僕らはその階段をゆっくりと上った。そして、申し分程度の、薄い、今にも外れそうなドアを僕が開けた。すると、この部屋はたいそう小さい畳六畳分ほどの部屋である。しかし、その空気中にはたくさんの白いつぶつぶが舞っているように見えた。そして上にいったり、下にいったり、横に移動したりもしている。これらは自由自在に空気中を移動しているようだった。綿ではないのか?しかしそれはもっと小さい埃のようにも見えた。ちょうどベランダで布団叩きをするときに際限なく出てくる小さな埃たちのように。部屋の真ん中にはこの季節だというのに、炬燵がひとつ、置いてあった。とても古い炬燵であるようで、炬燵布団はぼろぼろになっていた。そこで、異様な動物を発見した。これは、ヒトか?この顔は、どこかで昔見たことがある。古い絵画か何かで。そう、この姿は、この姿は。。「there must be an Angel...」僕は自分がこう呟くのを聞いた。すると、背後から五右衛門は、「さ、入りたまえ。ここで、草履を脱いで。」と僕の背中をそっと押して部屋の中に入れ、バタンとドアを閉めた。
四十二.彼女は足だけが無造作に炬燵の中に入ったまま、寝ているのだった。彼女は夢の中で、天使の大群を引き連れて、雲の上をあちこち飛び回り、暇なときには川で舟遊びをし、またとても困難な人助けの仕事をするために大会議室で会議を遂行したりしているのだった。きっとそうに違いない、と彼は思った。すると彼女はゆっくりと目を開けて、上半身を起こそうとしたので、「いや、どうか、そのままで」と僕は言った。すると姫は、全く任せきったような笑顔で返すと、また眠りについてしまったようだった。この部屋には不思議なことに、ピアノがなかった。しかし、寝ている彼女の周りには、「CHOPIN」と描かれた何冊かの楽譜が散らばっていた。僕らは彼女の右側と左側の席をとり、その炬燵の中に足を入れずに正座をして座った。「大丈夫か?」五右衛門は僕が彼女の顔をいつまでもまじまじと見てぼんやりとしているので、そう聞いた。「大丈夫?大丈夫ってどういう意味だい?」僕は聞き返した。「考えすぎるのはよせよ。」五右衛門はむっとして言った。こんなに気のいいやつでもむっとすることもあるんだな、まるで僕のようだな、と僕は思った。
四十三.僕はすでに五右衛門のことをとても気に入っていたので、この男とすこし喧嘩をしてみたい衝動が湧き上がった。「なあ、君、しかし、PIANOがないじゃないか。」僕は不満そうにそう呟いた。すると、やはり五右衛門はすぐに気を取り直して、こう言った。「あるんだよ。」そして空中に目をやった。僕は彼の視線の先を探してみたが、向こう側に見える古いグレーのロッカー棚と、全く整理のついていない混沌とした古い木の本棚と、斜めにかかっているどこかしらかの風景写真、あとは空中をまだ行き来しつづけている白い埃が見えるばかりだった。そこで僕は大切なことに気がついたという様子で「おい僕は、こんなことをしている暇があるのか?」と言った。その声に、姫は目を覚まして、ゆっくりと起き上がった。
四十四.「こんにちは、人魚さん。人魚さん、私、あなたにとっても会いたかった。だからここで寝ていたの。お城の中はとても退屈で、警備がちょっとやりすぎなの。お父様はあのとおり、うーん、なんていうのかなあ、時代遅れの考え方を持っている人だし。でも、ここには何でもある、やりたいこと、なんでも出来る、雲の上みたいに。」と天井を指差していった。すると本当に僕はその部屋の天井は実は空で、そこに大きなふわふわとした綿のような雲がひとつぽっかりと浮かんでいるように見えた。その綿のような雲を見ながら僕は思った。日本のお姫様は、一度にこんなに沢山話すのか?あるいは彼女は、僕にもうあまり時間が残されていないことを知っているのかもしれない。それよりしかし、僕は何か重要なことを聞き逃しはしなかったか?「…。人魚?人魚が、ここにいるのかい?僕は、無限。今日からここで働くことになった.…あ、こいつは、五右衛門で..。」するとさっきまで静かにしていた五右衛門がもう我慢できないといった風にくっくっと笑い出した。しかし、姫は笑わずに、真剣に僕の目をまっすぐに見て言った。「人魚、剣をもった人魚。」そこで僕の頭の中はぐるぐると洗濯機の中の水が洗濯物と一緒に右や左に回りながら、泡がだんだんと真ん中に引き寄せられていくような感じになった。「剣をもった人魚?」「戦う、人魚」彼女は即座に応答した。彼女はとても嬉しそうに笑った。
四十五.おい。と僕は自分自身に言い聞かせた。僕はいつこの右足小指を他人に見せたというのだ?そうさ。たしかに、僕のこの右足小指は、あのときに海底で見つけた人魚のミイラ。あの子の尻尾がついている。あの子は、今じゃ、part of my worldなんだ、いつも一緒さ。しかしだからといって、僕が人魚であると誰がいえる?「さ、その足袋をお脱ぎなさいな。」と姫は言った。僕は約三秒間ほどのあいだ、考えに考え、迷いに迷った。「卒業したくは、ないの?」と姫はこれ以上ないほどのまっすぐな、ある北の国の森にある澄んだ湖のような瞳で僕に聞いた。そして、僕の答えを待たずに、ロッカーの方へと歩き出し、小さなガラス製のお猪口と、茶色の小瓶三つを小さなお盆に載せて、炬燵の机の上に置いた。お猪口には、月と星と小さな埃のような水泡が散りばめられていた。姫は三つの茶色の小瓶の蓋を順に開けた。すると、その小瓶ひとつひとつからは、それぞれに違う花の香りがし、空気中の埃と混じって一緒に舞い始めた。彼女はお猪口にそれぞれ二滴ずつ、加え、小瓶の蓋をまた順に閉めたかと思うと、炬燵の中にあったさらに大きな茶色の瓶を取り出し、お猪口からその花のオイルを注いだ。彼女はゆっくりと大きな茶色の瓶を二,三度振ったかと思うと、蓋を開けて、手にとりはじめた。僕は、そのすばらしい花の香りに頭がぼうっとして、勢いで右足の足袋を脱いだ。自分の右足を、こうしてゆっくりと間近でみるのは、何日ぶりだろう?そして、こうした経験も全く悪くない、と思った。
四十六.姫は、まず僕の右足全体を見て、それから右足小指の人魚をじっと見つめた。それから、顔をあげて思い出したように言った。「五右衛門さん、お城に電話して下さい。今日は、ネットワークセキュリティー浪人は出勤していますか?今日これが終わったら、いちど見直さなくてはなりませんね。わたしは無限さんをお守りしなげれば、なりませんから。」すると五右衛門は短くうなずいて、城に電話をするために部屋の外に急いで出て行った。今気がついたのであるが、この部屋のドアにはいつも鍵をかけないでいるようだった。気がつくと、姫はその花のオイルで僕の右足全体を丁寧にマッサージしていた。僕は眠ってしまいそうなほど意識が遠のいていくのを感じた。その間、姫は話し続けた。「ここではね、たくさんのお客様がくるのよ。傷ついたヒトや動物。わたしはね、自分の身分を隠して、ここで働いているの。そうしていたいの。わたしにとってこれ以上に楽しいことは、ないわ。わたしはこの場所から、どんな国にでも行ける。それに、いろんな人や動物がやって来るから、いろんな話が聞けるの。わたし、本当にいろんなことを知っているのよ。たとえば、Christのこととか。あの方のお話、とっても面白かったわ。知っている?」僕は自分に言い聞かせた。だめだ、眠っちゃ。答えるんだ、今彼女に、全力で。Christ,Christ, あの十字架のことかい?ああ、だめだ、眠い。「あの方、全ての人の罪を購うために、死んだのよ。だから、わたしにも、できるかなって」すると僕は少し目が覚めた。おそらく、試験時間は残り二分くらいになっているはずだ。しかし懐中時計をもった兎はもうどこからも出てこなかった。
四十七.しかし僕は言葉を失ってしまったように何も言うべき言葉が浮かんでこなかったので、眠気を覚ますために自分の右足小指を詳細に観察することにした。いまでは、僕の右足小指はもとの人間の小指になろうとしつつあった。つまり、鈍色の鱗がまるで長い冬のあいだに溜まった硬い角質のように次々と剥がれ落ちていき、中から新しい人間の皮膚が生じているのが見えるのだった。「もう少しね」と姫は独り言のように呟いた。それから先は、彼女はとても集中していて、質問のことも忘れているようだったので、僕は何も言わないでいたが、頭の中では必死に考えていた。残り時間、後一分。僕は自分自身でカウントを始めた。どんなことにも制限があるのさ。しかしその中で出来ることは、無限だ。すくなくとも僕はそう信じている。「僕はね、」とついに口を開くと、彼女は同時に言った。「終了!やっと、やっと、人間になれたね。」彼女の笑顔は僕に「ありがとう」と言っていた。なぜだ?僕のほうが彼女にお礼をいうべきではないか?勤務初日の若浪人の分際で。。しかし、気がつくと、彼女はもうそこにはいなかった。
四十八.「おい、またかよ」と僕は呟いた。そしてその瞬間に立ち上がった。なんでだ?僕はせっかく今ここで人として、命を懸けても守るべきものを見つけたと思ったんだ。彼女を一目見たときから、僕はそのことをもう決めていた。あるいは、彼女に会うずっと前から、この城に来る前から、いや、あの白い子猫を抱きしめたときからか、そのもっと前からだ。剣の腕だって、彼女を守るために、ただそれだけのためにこれまで練習してきたのだ、やっとこの腕を使うときがきた、やっと、やっと、やっと。しかし、彼女は消えてしまった。そして、五右衛門、あの親友、あいつはどこへ行った?電話をかけるためだけに?何をしている?早く、早く一緒に彼女を探してくれないか。。なぜみんな消えてしまう?いや、消えてどこかに僕のほうか?違う、炬燵の上には、彼女が使っていた茶色の小瓶が三つと、ガラスのお猪口ががまだある。。ん。。。?するとやはり、三つの茶色の小瓶にはラベルが貼っており、左側の瓶には「炬燵の中」真ん中の瓶には「本棚の中」そして右側の瓶には「現像中」と書いてあった。僕はすばやく頭を回転させた。試験時間残り三十秒。僕は、自分に賭けなければならなかった。そうだ、こんなときこそ、自分を信じるんだ。今ここには自分のほかに、誰もいない。そして今ココにいる自分にはそれ以外に一体何が出来る?そしてたっぷり一秒間の間目を閉じ、深く息を吸い、そして吐ききった。僕は、知っている。そして、「現像中」とラベルに書いてある小瓶をすばやくひらき、その中のものを飲んだ。
四十九.すると、その部屋の古いロッカーの戸棚の上に張ってあったらしい表札のようなものの電気がぴかっと光った。「現像中」と書いてある。そして扉がゆっくりと開いたかと思うと、中から、僕が昨日選んだ灰地に墨のマーブル模様の着物をきた男が立っていた。「やあ。はやく、この部屋に入りたまえ」という。「姫をどこに隠した?」すると、「え?お前、時間がないんだろ?早く入れって時間を止めてやるから」と手招きをする。すると、ああそういうことかと僕はなぜか納得をしてそのロッカー棚からつながっている現像室に入った。「はっはっー。おまえ、ぎりぎりセーフだぞ。あと十秒いや、五秒くらい残っているらしいがね。」「その着物は、明日から僕が着るものだぞ?」とりあえずわかることから聞いた。「え?これ?んなの、どうでもいいじゃん。それよりさ、お前、いまからどこ行くところ?」「僕は、どこへも行かない。ここから一歩も動かない、早く彼女を返してくれないか。それからもう僕は休みたいんだ。いや、正直言って、もう夢から覚めたいんだ。」「いやいやいや、困るね、全部話してもらわなきゃ。僕はね、この部屋の神なの。でね、世界を創造しているの。ね、君ももう自分を探すのなんて止めて、自分を創造するといいよ。まずはね。」そういって、彼が今現像しているらしいモノクロームの写真を見せた。二十センチ×二十五センチほどの印画紙が三つ並んでいる左側のトレイの水の中にゆっくりと浸かりながら、黒やグレーの模様をゆっくりと浮かび上がらせている。「これが、ぼくが今創造している世界さ。大げさだって思うかい?」僕はその写真をじっくりと見た。この景色は、なんだか見たことのある景色だ。「Nowy Świat。新しい世界さ。ここに君が行きたいのなら、行くがいい。」「ちがう。僕はここから、一歩も出たくない!!」僕はほとんど泣きながら言った。そして同時にもう絶対に泣かないと決めた。だから。。「それなら、こんな場所はどうだい?」現像室の中に釣ってある何本かの糸には、いろいろな国やいろいろな人々、僕の行ったことのある場所、行ったことのない場所、知っている人、知らない人、憧れている人々、嫌いな人々、素敵なカフェやレストラン、花や動物や自然、その他ありとあらゆる種類の写真がずらっと吊り下がっていた。
五十.それから、彼は言った「お前、ほんっとに手がかかる女だな。夢から覚めたいだとか、ここから一歩も出て行きたくない、だとか。」僕はどのくらい怒ればいいのかがわからないときには、次の判断を急ぐことにしている。「これでいい。」そして、壁から一枚の写真を剥がした。「その場所に行ってしまうけど、いいかい?あと五秒だぜ。わかった?」「うん。五秒だね。」それで僕はその現像室兼ロッカー棚から飛び出し、草履も履かぬまま、ドアまで駆け寄り、階段を下りずに手すりから下に飛び降りた。
五十一.眩しい太陽の光が顔に照りつけるのを感じて、僕は目を覚ました。広い荒野の真ん中に大の字になって寝ている僕。僕の真上には、真綿のようなふわふわとした雲が浮かんでいた。「おっと。早く印刷して、提出しなきゃ。」僕は考える。えっとえっと、バックアップとって、メモリースティックに落として、レトロ印刷まで走って、あ、走る必要ないか。いや走らなきゃ。もう幼稚園のお迎えいかなきゃ。わお。今日の道草は長かったなー。お友達とミニフレンチランチしたあと、Leicaギャラリーに、行ってたの。すっごい楽しかった。だけど、この博士論文、誰にだそうかな。それより、二百年ぶりに発見された青の色で、印刷してみたいな。半透明の紙にね。きっと、水を含んだ雲みたいな仕上がりになる。それか、「My first noevl is on the clouds☆」ってことにしようかな。それならもう印刷しないでいいや。あ、印刷して、竜巻かなんかで空に舞い上がっていった、っていうのもいいかも!それで、雲の中で誰かがこれ読んで「お、いいね!」ってなって、いいねってするたびにちゃりん!って雲にお金が吸い込まれるの。Cloud Fundingってやつ?それからクラウドファンドで溜まったお金で、天上の音楽を作る。それが雨みたいに、水の足りないところに降るんだ。(でも本当は、Free Cloudsがいいなあ。)僕の手のひらには、いつか僕の上にぽっかり浮かんでいた真綿のような雲の写真。
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