海とピンクと輪廻の向こう
- clouds6
- 2024年10月14日
- 読了時間: 39分
一.海の中に落としていた石ころたちを探しに行くその旅は、久しく遠い海岸線を走り続ける車窓から、まずはその陽の光が照らす波うち際の色を眺めることで大体の場所を推測していくという身も蓋もなく途方もない行為の連続にゆだねてみることから始まった。
なぜなのだろう?前に進んでも進んでも、ずっと同じ海岸線...といえば嘘になるが、やはりその場所の地図を拡大したように海岸線はがたがたした線をひいており、へこんだり膨らんだりしながら、陸側では風力発電の風車が、そのでこぼこによって膨張された風をうけとめている。フィヨルド。どこか遠い北国に今私がいる、と考えることは私の心を慰める。こうして私は平日にひとり、誰にも居場所を知られず(正確にいうと、職場の人間や向かう先であう彼は私が今このあたりを走っている、ということは知っているだろうけれど、正確には知らないはずだ。というくらいものすごく長い海岸線だから)、時空間の真ん中にひとり浮遊しているような感覚になってみる。想像してみる。本当は、ここには何も存在していない、私がどこから来たのか、どこへ行くのか、本当は誰も知らない。私はどこかへ行こうとしているのだけれども、本当はそこじゃない。この海岸線の波打ち際とそう対話してみる。本当に私が、ずっとここ最近に探しているもの、それを見つけるための旅路なのであって、他のことは、それをお膳立てするための舞台装置であるように思う。生きていることの目的なんて、そう多くないんだ。だから、急いで私。私が今気が付くべきことに、必ず気が付くことが出来ますように。後からでも良いから、記憶しておいて、私の目と心。その色たちの反射をと波の動きを。時間が止まったみたいに、切り取って。
本当は列車に乗るべきだったのかもしれません。車を運転しながら考える。たしかそういう風景で先の物語は終わっていました。雲の上から、宇宙船で月へ、月から海へ落ちて、列車にのり、駅前で透明傘をさしていた私。雨は傘を滑り落ちて石ころにみたいに光っていった。それは地面にそのまま落ちたのでしょうか?透明傘と空の間ばかりをみていてたので、石ころたちがとこへ転がっていったのか、見届けてはいませんでした。
ひとつ素敵なことを教えてあげましょう。その駅にはのちに、本当に沢山のカラフルな傘が展示されました。星たちの居場所では、今でも雨が降ると、人々の身体にあたって跳ね返った水玉が、色々な色を帯びながら空中の中へと消えていくそうです。それが人魚の願いだったのかしら?願い事が少しはかなうこと、途中まではかなうこと。とても素敵なのかもしれません。すべてかなってしまうと、物語はそこで終わってしまいますから。
そのお話をどこからか知って、「素敵、素敵。」といったあなたは結局誰だったのでしょう。押し寄せる波のような抗いがたい強大な力で、私たちは星の音がするこの町へと引っ越していました。引っ越さざるを得なかったのです。とても強い流れでしたから。思い付きで引っ越したりしません。素敵といった方々も、どこかへ行ってしまいました。本当にあの方々こそ、私が今この海岸線で一人車を走らさざるを得ない、舞台装置だったのかもしれません。
二. 月が食べられたり、太陽が食べられたりするこの地球上で、頼るべきは海なのです。地上に残されているのは花々です。まず、そこから始めてみます。世界をいったんとてもシンプルにとらえてみて、そして探し物を見つけやすくするためです。とても一人です。神経をとがらせています。何がなんでも、という気持ち。必ず、という気持ち。その石ころたちを海に捨てたのは私自身なのだから。
そうはいっても、海岸線には終わりがありました。もうどれくらい走ったかわからず、トンネルをいくつも抜けて。トンネルは暗くて、他に人っ子ひとりいませんでした。ただ、道路の両脇に、緊急用の公衆電話が約十メートルおきに並んでいました。そんな風に、地球上の人々はたぶん優しい。「いつでも、助けを求めて」と言っている。しかし、「そんな暇がない」というのが私の答えです。とはいえ、少し心に灯がともったりもします、ありがとうございます。本当のことを言いましょう。私の探し物を知りませんか?ほんの少しでも知らないなら、ああ、私のことを、そっとしておいてください。
到着しました赤い屋根の工場では、いつか食べたら星の音が聞こえてくるようなフロマージュのチーズが作られていました。思い付きで言ってみたことが少しずつ形になったりする場所のようでした。とても長い海岸線の向こう側にあるのだから、当然といえばそうかもしれません。とてもゆっくりとすすんでいく思考の現実化。誰にも邪魔されないことは何よりも大切なことだって、今考えています。
この工場の窓からみる海は、遮るものがなく、夜はすべての光が海に反射して、石ころも見つかりやすいだろうな。。と正直に思いました。私はここで望遠鏡を持って夜中(夜を通して)立っていなければならないはずなのに。ふと現実に戻って思う。どこまでも自由でいる、自由に決められるはずなのに、今回も私にはそれができそうにない。これは甘えなのです。誰かが、何かが、もっと簡単に、もっと手短に。私が一晩中その窓の前で望遠鏡をかざしている代わりの絵(何か)が、欲しかったのです。そんなことにはならないのに。偶然を期待しているのです。そのことを、今恥じています。
風が強く吹く中、仕方なくハンドルをにぎり、来た道を戻りました。
ふと、あの看板が海と反対側の右手に見えてきました。もう6年も前に、知り合いから聞いて気になっていた、おいしいオイスターのお店です。これまでずっとここに来なかったことが不思議でした。私は今好都合に一人きりで、夕暮れ時の海岸沿いにいて、もうここには来られないかもしれない。少なくとも、今の私としてはきっと来られない。私は来年は違う人としてここを通り過ぎるだろうことが分かる。私は来年にここを通るころには、きっと別人になっている。そんな気がする。それは今の私に「死」が来るからだ。それは肉体の「死」なんかではない。私がずっと住んでいるある箱のような閉じられた世界の扉は、来年の今頃にはもう開いているだろう。その部屋には新しい空気が流れ込み、雨が降り、地面から花が咲きだすだろう。ちょうど地上に春が来たみたいに。ヒトは信じたいことを信じるものなのかもしれないが、信じたことが現実になる、ともいえるではないか。
今食べる海底のオイスターは、だからこそ意味がある。そう、ここらへんでいったん終止符をうっておくのです。6つの殻が鉄板に置かれました。そうです。一年一年をお祝いするみたいに、私は、ひとりお祝いをしました。
その窓から見える海は、右も左もまだまだ視界の先へ続いていて、遮るものも何もありません。ですので、私はそこに一つのピンク色の丸い形を落としてみることにしました。想像の中でおこることを、目の前に再現してみるという感じです。思考実験、というのがわかりやすいかもしれません。
そのピンクの丸型は、何かの声でした。海に落ちると、海全体を月の光で満たしながら、漆黒のてのひらのような花々が深海から浮かび上がってくるようでした。
三.死者たちの声とはどのような声たちなのでしょうか。私はこの海がつながっている少なくとも二つの海の風景を思い出しました。一つは、祖母が亡くなったときに帰郷した両親について、帰った天草の海です。この海は特別な色をしていました、それは、のちに私が通うことになったある教会の壁の色を帯びていました。そうです、私は自然に祈りました。沢山の魂の願いが、海に溶けており波に揺蕩っていたからです。その声は何と言っているかというと、愛について、神様の愛について語っておりました。しかしほんの僅かな後悔の念が含まれていたのかもしれません。そこにあったということは。それから私には、その魂たちが圧倒的に美しいと感じました。美しいと同時に可哀そうと思ってしまったのかもしれません。でも何か、自分に出来る気がしました。
「しなければならない」、という感じだったもしれません。また選択余地のないあの感じです。
私は祈らずにいられませんでした。その声たちが天のほうまで上がっていくことを。そのことを、ある一人の人に打ち明けたことがあります。彼は、私がそこで殺されたうちの一人だと言いました。私はとても覚えている気がして、泣きました。ずっと、一体何が正しいのかを考えていたのです、と告白しました。踏み絵のような、言葉の嘘が心の嘘になるのか、ということです。そのあとは、すぐにもうその過去を思い出さないようにしました。私はこの私の人生は、一回きりなんだということを信じたいですし、もう二度と肉体をもって生き返ることを望まないと思いました。一回だけの人生です。私は、基本の生き方として、生まれ変わりや輪廻を信じないことにしています。
四.もう一つの海は、私が生まれ育たった須磨の青い海です。私は今年の夏にその海を見ることになりました。この海とは、七年ぶりに再会しました。七年前にはちらっとポートライナーからみただけでしたから、その須磨の海を眼前にみたのは、十五年ぶりだったように思います。十五年前、私は実際にその海に、いろいろな色の石ころを捨てました。
十五年前の夏の日、私は日本を旅立ちました。とても仲の良かったそのお友達は、私に言いました。「あなたはあなた自身のことを、全く知らないのですね」、と。また、「あなた自身、あなたが今何をしようとしているのかを、全く知らないのですね。」と。そして、その人は謝りました。その人自身が凡人だといって。私はそれら一連に綴られた言葉の意味が分かりませんでしたし、私は、その意味を理解することの効用を信じたくありませんでしたので、その代わりに二編の詩を読みました。とても仲の良かったお友達は、そのうちの一つを気に入りました。こっちの方が良い、と言いました。その詩を、私はいまも大切にしています。そして、駅の階段を駆け上がりました。
本当に、何でもないことなのです。十二月の射手座の新月のある日、とても良い出発日のように思えました。私にはたくさんに理由がありました。私の半生は、私が捨ててしまった神様に対する誓いのようなある一連の理論について、それが私の何を救うのかという諸問題を解くことに集中していました。
五.そのきっぱりとした始まりの時を、今も覚えています。それは、その頃に読んでいた書物が目の前で焼かれてしまったときのことでした。私は涙を一粒もこぼしませんでした。泣くのは違うと思いました。私が感じたのは、恐怖に近い感情だったのかもしれませんが、焼かれる間中、私はただ、決心していたのです。もっと神様がお創りになった世界を知って、神様がお創りになった人間を知って、良いことだけにこの命を使う。それでもし、信仰を失わざるを得ない私のことを、神様が少しでも酌量してくださること、「この人を永遠に失わせてしまうにのは、この人のした事と比べてもったいない」という例外事例になれるように、必死でその決心を遂行してきていました。P国は、私の罪がどれくらいの罪になりうるか、を自分なりに思い知るためにふさわしい場所であるように思いました。
他にもとるに足らないような偶然の理由がいくつもありました。私はその時に、ある病院にあるピアノで、よくショパンの曲をひいていました。それを聞いていた音楽好きのある人は、私にドラムスティックをくれました。彼は私をピアノのコンクールに出るように言ってきた人です。音楽好きの人々は、いつも私の周りにいました。その病院には、音楽好きで、少し傷ついてしまった4-5人のグループがあり、中庭にある売店にお菓子を買いに来ました。そのあと、私は彼らにピアノを弾きました。しかしそんな時ですら、私は「自分が一体だれで、何をしているのか」考えたことがありませんでした。ただ、そうせざるを得ない、という風に感じていただけだったのです。
「あなたは自分のことを何も知らないんですね」と、移住先でも言われました。ある日、その仕事の上司はシスティーナ聖堂の天井画の写真を私に見せました。自分がどれであるかという空想をしていたようでした。彼は、最初にあった日に、バンドを組みたいと言いました。「でも、ドラムがいない」ピエロギを食べていました。私は、上のドラムスティックのことを考えながら、「私がドラムをやります」といいました。
彼はものすごくにっこりとしてから次のピエロギを頬張りました。バンドの話はそれで終わりましたが、彼はベースを弾く人だとあとから知りました。彼のことで覚えていることは、いつくかありますが、システィーナ礼拝堂の絵の中の一人を、私が自分であるはずだった一人の天使を、そうではなくてその天使に抱きしめられている人なのだといって、私をびっくりさせました。天地がひっくりかえるような思いでした。私が自分自身のことを知らない人で、とても真面目な人だ自分でも気が付いていないのだと、言いました。
そんな毎日のある日私は三時間くらい留守にしてそのオフィスのそばにある池の周りを散歩していました。そのオフィスは空港のそばにありましたから、空港の管理人がついにやってきて、私に声をかけました。たんぽぽが咲く季節でした。それも大量に。そして視界はその綿毛で遮られていました。それまで、野の花を採ったことが一度もありませんでしたが、どうしても、1本だけ、犠牲が必要でした。犠牲の意味が知りたかったのです。その時に死んでしまったヒトのことと死んでしまったかもしれない美しい人のことを考えました。そして、持ち帰って、そばに置きました。コップに水を注いで、淹れました。その1本のたんぽぽのために、私は散歩を中断することができました。すぐに水に淹れないと萎れてしまいますから。そして帰りましたら、彼にとても叱られました。私はその仕事をもう続けられないといいました。
六.他にも音楽好きの人たちがいました。気がつくとそうなっているのです。初めてかけてきた電話で、歌ってくれといってきたひと。あなたには歌がある、といってきたひと。私は歌うことがずっと昔の小さいころに好きでした。それでも、ずっと歌うことを辞めていました。思えば、バンドのボーカルは私に近づいてきて、私のことを強い女の子といっていきなり抱きかかえてきたり(次の日に教室に謝りに来ました)、赤ちゃんにもおばあさんにも男にも女にも見える、といってきたり(その前に、階段の下からの覗きをして大変失礼なことを言ってきました)、まっすぐな声を褒めてくれたりしました(このことを聞くために一緒にいたんだと夜の海の前で思いました)。
ある日その人が、とても仲良くしていた人でしたけれども、自分の歌を聴きにきてほしいといいました。私は行きませんでした。私は、一人のヒトに聴かせたい歌、というのがとても俗っぽいことのように思えたからです。そしてその対象が自分であることを怖いと思いました。今、そのような「誰かに伝えるために曲をつくる」というようなプロジェクトがあったりしますが、それがわたしにはいまだに理解できなかったりします。呼ばれる人はとても幸せかしら?だって私はあのとき、逃げ出したいと思いました。でも、誤解しないでください。彼とはその後も、よく食事いったり散歩したりしました。
その断った子に、私がのちに洗礼をうけることになる教会を教えてもらいました。私は仕事をしていましたが、目の前に座っていた人は、私が思いの強さから場所を移動したりしていることを感じ取っていました。例えば、お茶を飲みたいとおもっているときに、強く思いながら我慢して作業を続けていて、「お茶を淹れようかな」「もう1時間も前にそこで淹れていると思いましたよ」と言いました。「私のことが好きなの」と聞くと「なんで分かったんですか?」と聞く。そんなこともあって、今、すぐに、どうしても行きたくなってしまったその教会へ、その思いがその人にばれてしまう前に、出ていきたかったのです。そうして、早退をして、その場所に向かいました。私は、その頃はもうよく歌をうたっていました。メリケン波止場。浮浪者が寝ている東遊園地。わたしは歌っていきました。祈っていきました。正直に言って、祈ることが出来る方法をすべてやっていきました。神道でも仏教でも何教でも。自然に守られているらしい私。だからやっていきました。そうしていくべき場所がその時に分かった、というだけのことでした。ほかに理由のない、できるだけシンプルな事実は、何よりも強いと知っていました。だからちゃんと聞いて、何よりも優先するべきと判断して行動することが出来ました。
七.その教会で歌っていた時に、彼は後ろからやってきました。私の歌が祈りであるとわかります、と言いました。声の延長線上に星があると言いました。彼は東大寺1000年祭のための、すべて生けるものの賛歌の作曲を依頼されていた作曲家でピアニストでした。のちに私は招待されました。彼はインスピレーションを求めて教会にやってきたと言っていました。彼はフォーレーのお弟子さんに教わったりイスラエルで死にかけたりスティルバーグにUFOの様子を教えた友人の話など、面白い過去をたくさん教えてくれました。でも、フィンランドから帰ったあとに坂の上の家で私にボイストレーニングをしたとき、フィンランドの妖精の谷の水をスプレーでかけてくれました。沢山の天使が見える、といっていました。そのあと、彼は車の事故にあい、私は呼び出されて彼の話を聞きました。それ以来、私は彼になんとなく連絡しなくなりました。
八.「母親が赤ん坊に歌うように、歌わなければ。その赤ん坊の後ろにある全世界、全宇宙に向かって、母親は歌うんだ。歌はそうやって始まっているはずだ」先の作曲家が私の声に似合う楽器があるといっていたその楽器はライアーといいました。それで、なぜかライアーを探しに京都に出かけていました。私はライアーを買ってからなんとなく、昔住んでいた京都を散策しました。気が付くと、1度訪れたことのある神社が目の前にあり、わたしはライアーとともにその神社に足を踏み入れてみたのです。すると、そこの宮司さんが上のように教えてくれました。彼は私のに今起こっていることが言わなくても色々わかるようでした。そして私がその神社で働くように、いいました。巫女は赤、宮司は青、私は緑の袴を着ると良いといいました。事務方ということなんだと思います。彼は祈祷が何かを自ら見せてくれました。それから、山の中の川で石ころを収集していました。もちろん、ご自身の神社には奉られている大きな横長の石がありました。川から拾う石ころたちは、もっと小さな大きさのものです。彼が川に飛び込んで、拾った石ころをもって泳いで帰ってくる様子をみて(私は川の前に建てられたテントに中でその様子をみていました)まるで河童のように非現実的な人だと思いました。その石たちは、帰ってからベランダで乾かされるようでした。とても鬱蒼とした森の中にあるその家の。
そのグレーの石ころたちが、ごろごろと乾かされるベランダを見た後に、1000年以上も昔に建て替えらえる前の京都でもとても古い神社の跡にお参りにいってみました。そこは森でした。怖さ、恐ろしさはこういう場所にありました。それは息遣いだったりうねりだったりします。そこには、彼の家にある気配と似ていました。彼はなぜあの美しい大本山を、大変な敬意をもって真剣に祈祷できるのに、このうち捨てられた、彼のご先祖の神社を同じ思いで尊敬できないのか、それは彼から直接聞いておりました。私は、自分が彼と同類のような気がしたのも事実です。私は同情して、彼のことを信じたがりました。彼は、自分を神の子だ言いました。そうせざるを得ない理由が私には分かりました。
彼は外側に求める神の存在を徐々に私の前で否定していきましたが、私はそれを聞かずに、相変わらず教会へいきました。あの日に初めて教会に足を踏み入れ、歌い、順正律で歌う聖歌隊に入り、毎週歌うようになりました。そうして、私は自分が何をしようとしているのか、だんだんとはっきり自覚するようになりました。私は4年間歌って、あるイースターの日に、洗礼を受けました。私はもっともっと歌いたかったのだと思います。
九.ある一人の女性がそのことを知っていたように思います。東遊園地で出会ったはつみちゃんという不思議な女の子。その6月1日の晴れた午後に、私は空と大地にかけて祈っていました。あるいは懺悔をしていました。なぜこの空や大地を、存在として、もっと最大限に喜び享受することができないのかと、ほとんど謝るような気持ちで祈っていました。私は今すぐにこの大地に触れなければならないと感じて、空を見上げていた時に、「あなたは自然に守られていますよ」と言ってきた女の子だ。彼女は、私の手のひらを見たがった。私は何かを断ることがめったになかったため、もちろん見せました。そうすると、私の手がキラキラしていて何かのサインだという風にいいました。
この女の子のほかにも、特に何の用事もないのに突然に話しかけてくる人はいました(特に宗教関係の人々だったように今思います)が、この女の子は私に必死に何かを教えてくれました。この女の子は私をある沖縄のシャーマンに出会わせ、その妹は私の女友達になりました。考えてみれば、女の子は友達にするものではないとどこかで思っていたのに、ちゃんと友達がいたのです。中学生三年生のころ、「私は私のことをあなたに全部伝えているのに、あなたはあなたが持っている世界について、私に打ち明けていなくて、秘密を抱えているって気がするの。それが悲しい。」そう言われて、親友をもつことは面倒だと、特に女の子の親友を持つのは面倒だと、正直に思いました。それ以来、親友ともいえるような女友達を作らずにいました。しかし、日本を出るときに、そういった類稀な繋がりもいつしか切れてしまいました。
彼女は白い鳩が門扉に止まった、教会のキャンドルホルダーをプレゼントしてくれました。その子は言っていました「わかっているのよ、わたしたちは互いに一人で生きていかなくてはならないということが」。もともとは、そのお兄さんが私のことを心配して(しかし思いのほかバランスをとることに長けている私を後に見つけたことでしょう)、あるいは「妹の友達になれそうな、面白い人がいる」と私を紹介して、そのとおりに私を監察しつつまた側にいてくれたのだったらしく、しかも実際に私たちはある程度、似ていたように思います。彼女は私のお友達です。特に会わなくても良いと思えるほどに。
彼女と初めて会ったある満月のよる、彼女は突然、みつあみを編み出しあました。まるでインディアンの酋長の娘みたいな強さをもった人だと思った。すこし私みたいだと、わたしみたいに、この人は一人なんだと、思いました。
十.自分自身で洗礼をうけてカトリック教徒になり、今はとても好きな教会でオルガンを弾いたりしている。これは私の夢のうちのひとつで、それは叶うべくして叶ったのだと断言できます。
私はそれを明らかに目指していました。私はその場所にふさわしい、と思っていました。そこに座れば、神様は少しは許してくださると考えていたました。その場所へ座るためのすべての出来事に感謝をしていました。
十一.「死んだらダメ」といったあの人とは、ある駅で反対側にのる列車ために、別れました。彼は「またね」と言いました。私たちは、そのとても寒い凍える夜に、一緒に坂を下りながら教会のクリスマスツリーを見ました。「ずっと行っているイメージ」私が、ずっと教会に。彼は言いました。私の向いに住んでいたのは、彼が通っていた厳しいカトリック系男子校の教頭先生でした。それで、彼はその家を訪ねたことがありました。その先生がカトリックに改宗した哲学者だったから、カトリックだけは、許されると私は思っていて、カトリックになったのだと思います。それだけではない気がするけれど、そういうとことはすべてパズルみたいに解いていきました。
自分が探している、必要な言葉を聞くために、人を好きになったりします。理由があるとしたらそれだと思います。それであなたに会ってみたいと思いました。でも、今は自分で探そうと思います。早回り、もうしなくても良い気がします。もう必要なピースが揃い始めていて、それでも組み立てる勇気だけなくて、白い積み木と積み木の間の細い斜めの空間に寝そべって、じっと自分自身の在り様を眺めていました。いつ、いつ、その瞬間がくるのか、本当に次のサインがくるのかどうか。
そろそろ甘えるのを辞めてしまいましょうか。そろそろ箱のなかから出してあげましょうか。その木製人形が噛みついてくる前に。私は、自分で見つけることがそろそろできるらしいですよ。だって、もうサインも何も多すぎて、信号も多すぎて、ただただ足がすくんでいるだけなのですよ。
月見山駅だったり、半月湖だったり、月の海だったり、星観川だったりに立つたびに、君のことを思い出します。スーパーの袋をたった一つ下げて、信号を待つ君を。いつか憧れた空を見ながら屋根の上から落ちてしまった君を。でも、私のことを待っているのが、本当は誰なのかを知らない。私は知らないままで、動いていくのです。本当は話しかけても、良かったのかもしれません。でも、まだ足りない気がしていました。私の代わりに犠牲になった人が、本当は誰なのか知らない。こんな私が、生きていけるワケがないと言い切った人。結局は犠牲にならずに、結構しぶとく生き延びています。神様もまだ許しておらずしたがってまだまだ奉仕の旅です。最近はもう何のお印もありません。そして、やっと、サインがいらなくなったのでしょうか。もう、早回りもしないし、遠回りもしないで良い。箱の中からだしてあげたのです。自分自身を。その人形は月の光に照らされています。私はそれを見つめています。そして時間が動き始めました。
十二.粉々になって消えていったのは、死にはしないあなたの感性。言葉はすでに私の海に沈殿してました。月の光を浴びれば、小さな手となって生まれる、何かをつかみ取る。あなたがちゃんと生きているかどうかを考えたときに、インターネットを開きました。あなたはもういないってことを確かめました。それでもあなたの言葉が正しかったのだと、どこかで真実にしてみたい。だから、輪廻を歌います。祈ります。世界に一つだけの神様の存在が、実はすべて繋がっている何かだということを、私も知っていると、私たちは同じだと、歌ってみたいです。
私はカトリック教徒になりましたが、遠いヨーロッパの、言葉がわからないミサの途中にくやしくて涙が止まりませんでした。聖書の言葉が分かりませんでした。分かろうとしても、一人取り残されたような気持ちになりました。でもそれよりももっと、重大なことに気が付いたように思います。宗教は文化です。でも人々を助けている空気や水です。戦争の戦禍の中で傷ついた人々の心を癒すのに、何が必要だったでしょうか?
「君は、なぜ洗礼を受けようと思ったの?」夫は遠慮しがちに聞きました。私はいつもこう答えてきました。「歌を歌っていた結果、自然にそうなったの」と。「僕の叔母は、自分の5歳の子供が湖でおぼれて死んだときに、とても敬虔なカトリックになったよ」と答えました。分かっています。私もそうです。私には何かが必要だったことの言い訳だったのかもしれません。その理由を、P国に旅立つ前に駅にいたあの子は、知っていたのです。私は、いつでも自分を本当には許したことがないのです。
一三.さて、両親とは離れ離れに育ったあの子は、いつも突然に目の前にやってきては悪魔祓いなどをしてくれる存在でした。これは、本当に言葉としてそれをやってのけた人を、私は先にも後にもしりませんでした。孤児院のようなところでは、神様の存在を教えるらしいです。とても適切だと思います。彼は、東の神様、南の神様、南の神様と、北の神様にお祈りしてくれました。六甲山の頂上で、初めて、そのやり方を教えてくれました。彼が毎日しているかもしれないそのお祈りを、碧い空と風の中で聞きました。彼がどのようにして生きているかを、そのときに始まて知りました。
いつから私がお祈りをはじめたのか。とても覚えているのは、小学校1年生の時に「小公女セーラ」を見て、世の中の不条理のようなことを悲しんで、心に誓いました。どんなにつらいことがあっても、セーラみたいにすべての人に、とくに弱い人を守っていこうと。それから毎晩、「今日の私がセーラ的であったかどうか。もうしそうでなければ、ごめんなさい。もっとセーラになれますように」というのが、小学校1年生のときの毎晩のお祈りになりました。
どうしてそのように思えたのでしょう。私は祈りたかったのです。どんなことにも負けたくなかった。それよりも役立ちたかった。何かを証明しようとしていた。だから一番好きだったのはピアノをひくことでした。言葉にならないことが、心の底からあふれている祈りが言葉になって流れ出ていく感覚が確かにありました。
もっと昔のことを言えば、私は色々な音を聞き分けてよく聞いていました。両親は特に音楽好きだったわけではありませんでしたが、私はとても小さい赤ん坊のころに、近所のお姉さんが練習していたピアノの音を聞いていたように思います。しかし2歳のころには、赤いおもちゃのピアノをもっていたようです。大きなパンダのぬいぐるみと赤いおもちゃのピアノ。2歳の私はその2つにはさまれて、ファインダーに向かってにっこりしていました。音は私の子守唄でした。
4歳になったころ、ピアノが欲しくて号泣したと父から聞いています。そのようにして、私は自分の友人を見つけ出して引き寄せたのでした。そして素晴らしいピアノの先生にも習うことが出来ました。彼女は私の手はピアニストの手だといいました。ピアノは心臓で弾くものだと、教えてくれました。また、ピアノでロックミュージックにもなることを。彼女は私のことを幾分多めに知っていた人だったのかもしれない、今になって思います。レッスン後か前の玄関で、彼女は私をぶったことがあります。私の心はとても辛辣になることが出来ました。そして、言葉で傷つけることになってしまったのです。私はびっくりしました。でも先生が守ってくれたこともありました。ノクターン1番を練習していた時には、私が失恋したり恋愛しはじめたの、と聞いてきました。そうでなければそんな音が出ない、と。家の前を通りかかった時に思ったそうです。家の前を通りかかったときに、両親がものすごい喧嘩をしていることがあったそうです。先生は、それは私が怒られているのだと勘違いして、ある日家に電話をかけてきました。それ以上私のことを叱らないでと。しかし事実は違いました。私が犯した間違いのせいで、私の母が父に怒られてしまっていたのです。それは、自分が怒られるよりももっとたちの悪いことでした。
十四.小学校3年生のときの親友は、Tさんといって、牧師の娘でした。だからというのではないのですが、私は山のふもとの公園のブランコの近くで、ある日私は彼女に「神様の愛について」語ってしまったようです。そして、Tさんは怒ってしまいました。「小学生の私たちが、神様の愛について、分かるわけがないでしょ!」と言われてしまいました。それでも私たちはずっと仲良くしていました。彼女は、夏休み中に開いた私の誕生日会で、ある誕生日プレゼントをくれました。シスターの陶器の置物でした。他の子たちのプレゼントは、ハンカチや鉛筆やノート、キャラクターののった小さな小物たちでした。私にはとても不思議でした。それがどういったキャラクターなのか、分かりませんでした。大切にもしていなかったと思います。でもそれから20年後に、私がシスターになることを目指して無原罪の聖母マリアの修道会に通いだしたそのときに、私はこの私の全存在がすべて神様の役に立つようにと法律や税法を勉強していて、ある日父親にそのことをうちあけた。その次の日、彼は小学校3年生のときのTさん殻のプレゼントであったそのシスターの陶器をテレビの前に置いた。その陶器を20年ぶりにみたのだけれど、その人形は銅のところでひび割れていて、それを接着剤でうまく次ぎ合わせた跡が見えました。そして父はそのテレビの前の大きな椅子に再びすわり、何時間でもその人形を視界に入れて眺めていたのでした。
十五.また話は小学生のころにもどりますが、小学5年生になったときに、3年生になった弟に話しました。家のリビングの中央にある、飾り棚には子供たちが読むための図鑑や辞典が並んでいました。何か調べものをするときに、二人で国語辞典を開いたりする場所でもありました。私は、神様について調べましたが、どのようにして神様の存在が実証されたかはどの本にも書いてなさそうでした。だから私は弟に言いまいした。「辞典には書いていないことなんだけど、神様の存在をどのように信じられると思う?」彼は即、「知らない」と言いました。それから私はこう言いました。今でも覚えているなんて、とても不思議です。
「今私たちの目の前にあるもののうち、誰かが作らなかったものは、ないよね?みんな、誰かが作ったものだよね?」「うん、そうだね」「じゃあ、今目に見えているもののなかで、一番複雑な機能をもっている人間のことを、誰かが作らなかったで、言えないよね?」「うん、まあ、そうだね」「そうなの。このような愛とかもっている複雑な人間を作っているものが、神様なの」「.......え?」「この愛とかをもっている人間をつくっているものを、神様っていうの。信じられる?」そして、初めて私は一人の賛成者を得た。「うん、信じられるよ」彼はそう言ってくれた。とても真剣に。そのことは私にひとつの確証を与えた。ああ、通じる人には通じるんだ!
さてその成功体験のあとでは、実は失敗体験も多く、このような人間たちを、このような世界をお創りになった神様に特に聞くこともなく、ただこの世界を端から観察し、知り尽くそうという好奇心に満ち溢れた子供になりました。ところが、です。ところが、私はある日、倒れてしまいました。保健室へ行くと、この健康な、成績優秀でクラスの中でも人気者として通っていた私が、「過労」ということにりました。
そういえば、私は神様の存在を自分なりに実証して一人の賛同者を得た後にも、よく眠れないことがありました。それは、単に就寝時間が早かったためだと思います。ただし、私には他の問題もありました。私は幽霊の存在を極度に恐れていました、私をより深い孤独の縁に追いやったのは、夜中にみた人魂のような炎の塊でした。
またその頃、小学3年のときの担任の先生が、よく怖い話をしていました。本をよく読んでいて、想像力がありすぎる私には、その怖い話を眼前で再現してしまっており、夜になっても映像が浮かんできていました。そして私は良く金縛りにあうようにもなりました。部屋の中の空気がうごめきだすように、暗闇は気配と音と匂いがあり、そして身体を触ってくるようにもなりました。いつ終わるともしれない金縛りに合いながら、私は必死に祈りました。「何を?」。それが今分からないでいます。ただ、すがるような気持ちで、このまま死んでしまうかもしれない、と思っていました。その先生のことを恨んだことは一度もありません。クラスの皆はとても喜んでいましたから。けれど、私は今、怖い話の表紙の怖い絵を書いている大人の人と仲良くなろうとしていると思います。そうすれば、きっと、大人たちのことをもっと心から、許して好きになることができると考えているからです。子供のころの自分に、説明してあげたいのです。
十六.さて、しかしいつもやがて朝が来るので、何もかも忘れたような一日が始まりました。さらに良いことに、やがて私はラジオを手に入れて、自由に音楽を聞く権利も手に入れました。私は毎日それを聞きながら眠りにつくことにしました。そうすると、暗闇に中に思い浮かべられるのは、もっと生き生きとした恋の話。春の桜や夏の海、秋の木枯らしに吹かれて、冬には雪とサンタクロース。夢のようなティーンエイジャーの生活が待っている。きっと楽しい。きっと好きな人ができる。そして本当の私のことを知ってもらえるかもしれない、と思いました。
そのときに、英語の教室にも通い始めて、その先生が、早く暗記が終わる私に聖書を渡しました。わたしには、単純に驚きでした。「本当に、そうなの?」先生に言いました。「そうなの。私たちは、皆神様のところに行くの」「だからこの世界はそんなにきれいじゃないの?ここは、仮の世界で、神様の国に行くためのそのための世界なの?」
だったら全部話が繋がる。だったら全部報われる、説明がつく。そう思って、とにかく驚いた。「ここ」の他に、別の世界がある。今の世界は、その世界にいくための準備期間。だれでも行けるわけではないから、神様のテスト。神様のテストに受からなきゃ。私ならできる。そう思いました。
そういうわけで、一日にして、世界の見え方が変わりました。恋のようなものでしょうか。すべては神様の愛につつまれて目の前に差し出されているという気がしました。彼だけは知っている。私がいつもお祈りしていること。皆が幸せになりますうようにと。
それで、英語の先生は幾分幸せになったように思います。それは、私が熱心に聖書の勉強をするようになったからです。私は信じることを選択しました。彼女が呼んだバスが、すぐに私たちのもとにやってきたこと。たとえそれが時刻表どおりだったとしても、彼女が言った「神様のバス」を。凍えるような寒い夜でした。彼女も、ひとりぼっちの人だったのかもしれません。
父はそれに気が付いて怒って、関連の書物をすべて燃やしてしまった。年初に行う「どんと焼き」のように、ガレージで。「すべての宗教を学んでから、自分で選びなさい」と言いました。それから、私は私の上空の景色が目まぐるしく変わっていくのを感じました。上空だけでなく、立っている地面の在り方が突然変わっていくのを感じました。重力が変わっていくのを感じました。それで、とても強く決心していました。神様に例外規定を適用されるようになるまでに、今日からなすべきことが何か、と考えはじめました。
十七.教会でオルガンをひいているとき歌っているとき、自分がやるべきことをやっているという気持ちになります。しかし手に入れた瞬間に、夫は教会に行かなくなってしまいました。そういうものなのだ、という風に思います。本当の願いを叶えることは、とても難しいのです。本当に欲しいものを手に入れる、ということは。毎日でもやってみたいこの奉仕をしかし、月に1回はやらせて貰っています。それだけでも、とても有難いことなのだと思うことにしています。
オルガンを弾きながら、心と体が一致していることを感じます。しかし、最近初めて行ってみたライブというもので、ひょっとして自分が求められる場所がもう一つ余分にある気がして、ひょっとしたら何もかも勘違いだったんじゃないかと、他の可能性を探り出したりもしました。つぎつぎと、ひとつひとつ前に進んだりしてより本来の自分自身に近づいているのか、もしくは、堕落していく自分なのでしょうか。それをもう少し知ってみたかったのですが、その可能性も、自分から遠ざけてしまいました。結局、必要とされなければ、何もすることが出来ない人なのです。どうして。それもとても謎なのです。
十八.「必要とされたいのでしょう?」そんな風に言っていた人がいました。他の人は違うのかしら?必要としなければ何も出来ないなんて、あまりにも受動的すぎるという気もしますが、本当は正しい生き方のようにも思います。その中でも、私は精一杯自分で選んで行動しているつもりなのです。でも、あまり多くの努力をしたくなかったのかもしれません。そのために、他のものを失っても良いって思えるほどのものにしか。その対象は、私が決めることが出来る、とばかりに息巻いているのかもしれません。
これまでに書いたことは、色々な宗教を調べていく過程でであった人々のことです。私は沖縄のシャーマンに教わった瞑想を練習して、100日経た時に、桜の木々のたつ川沿いで、奇跡に出会いました。そのときに沢山の涙が流れ、呼吸は皮膚呼吸になり、一つ一つの細胞が空気に溶けていくような感覚になり、ただただ「すべてのことを一瞬も見逃されずに見ていた」存在がいらっしゃったことが本当に分かり腑に落ちた瞬間でした。存在するだけでこんなにも愛されている。それから、その川には、沢山の桜の花びらが流れていました。
もっと言えば、その桜並木の横を歩いている前に、出会った人がいました。彼は私の話を聞いて、面白がっているようでしたし、心配もしているようでした。それは、先の、クリスマスツリーをみた人と同じ人です。彼は私に歌うことを進めた一人でもあります。
その人が私がシスターになれると言っていたように思います。それが原因ではないのですが、私は自分の理想の姿をみたような気がしました。わたしはそれまでそんなことを考えたことがなかったのです。今ふと、きみのいろ。の映画に出てくるシスターが自分のもうひとつのイメージだったのではないか、なんて思い始めました。しかし事実は、違います。私は今その教会にもう一度足を踏み入れている、高校生の方です。私は主人公癖が治りません。
十九.「あなたが主人公なの?」初めてのバイト(三ノ宮駅前のハーゲンダッツ)先で、50円玉をレジ下に落としてそれを拾うことを拒んだわたしは、副店長に別部屋に呼び出されてしかれていました。そして泣いていました。そのあと、彼女が何か言って、笑って終わりました。泣きながら笑うことができることをその時に知りました。彼女がそう教えてくれました。私はそのころから理屈を並べる聞かん坊だったのかもしれません。でもそのお店のを最後にみたときに、私のことを探していたある外国人の姿を見つけました。
彼はある日、ハーバーランドの橋の上で私を見つけました。私はそのときにもアイスクリームを食べようとしていました。アイスクリームを食べた後に帰るということを、大体の大人の人たちにした、と思います。しかし彼は私にあることを教えてくれました。それは、わたしの精神がきれいだということでした。私にはそれがとても信じられなかったので、少し感謝しています。初めて夜を過ごした相手がこのように優しい人で良かったのかもしれません。
私が外国人の方々にもてる、と言ったのは大学の写真部の先輩でした。たしかにそうかもしれません。京都の木曽川沿いにあるクラブに一人で行ったときに出会ったキムタクからもらったスーツをきたらしいあの子は、双子の弟で、双子の兄の陰のような存在だと自分自身で感じている(ミュージシャンの父と兄が一緒にコンサートをめぐっている、自分は父に捨てられた母とクリスマスを過ごすと言っていました)彼と、鴨川沿いで話しました。悩みを聞いたということかもしれません。彼は心理学を勉強しに日本に来ていました。彼はオランダに帰ったあと、何回が手紙をくれました。私がオランダに行こうとした朝にパスポートが机の上から消えていたあと、私は部屋を荒らして家を出ました。彼は私のことを心配していましたが、それだけではなかったと思います。彼は病院にいました。病院から手紙を書きました。そして旅行にきた彼の友達に私に電話するようにいいました。私は約束通りに飛べなったことを忘れたくて、それでそれからパスポートの事を考えるのを辞めました。ですからそのあと私がパスポートをみたのは、わたしがP国に初めていくときでした。結婚するときになって再びパスポートを作りました。それ以外のどんな場面においても、パスポートをつくることがないと考えていたからです。
二十.おもえば、彼は自分がエイプリルフールに生まれたことを気にしていました。その後は、私はエイプリルフールに絶対に嘘をつかなくなりました。また、4月1日生まれの人にとくに注意していました。P国で仕事についたときの最初の上司はそうでした。彼のお父さんも家出をしてしまっていました。
双子の弟にも気を付けています。小学2年生のときに、双子の弟がいました。その担任の先生がある放課後に私を呼び、その子のまえで九九を暗唱するように言いました。わたしはすぐにすらすら言いました。かれは目を丸くしてびっくりしていました。わたしも、びっくりしました。なぜ私がそのようなことをしなければならないのかと思いはっとしました。彼はそれをみて嬉しそうにしていました。私は黙って教室を出ていきました。4年生のときの友達は彼ととても仲良しでした。友達は聞いてもいない野に彼の境遇を教えてくれました。双子のお兄さんは今の家族とすごし、弟の彼は、祖父母の家で育てられていた。そして小学生になって、今の家族のところに来たのだと。彼は自分そっくりの兄が、今の家族の本当の子供であることにショックをうけたのではないかと私は思います。私はそれまで兄の方が好きでした。皆そうでした。でもそれ以降、たびたび学校帰りにちょっかいをかけてくるこの弟にもっと優しくしようと思いました。
「ただの偶然だよ」「考えすぎてはいけないよ」そんな風に言われたことがあります。すべてのことをタペストリーのようにつなげていこうとする私に。これはパズルなどでではないのかもしれません。たまたま同じ苗字。たまたま同じイニシャル。たまたま同じ、境遇。たまたま同じ誕生日。
たまたま考えていたことがテレビ番組やCMでふと流れる。その言葉、さっきまで私が考えていたこと。どうしても、誰かが聞いていたとしか思えない。本当の偶然。でも誰にも言えない。
時間が本当は経っているのかいないのかも分からないこと。わたしはここで、この部屋でパズルのピースを集めています。ある人が双子の弟だったと知った時に、だからサーフィンをしたり眼鏡をかけたりしているの、ただ私の前を通り過ぎたから私も気が付かなかった。私はこんなにも怠慢になってしまっていました。神様のサインはいつだって私には分かりやすいと、勝手に信じていたのです。でも私が大人になってしまった証拠に、そのサインを見つけることも、そろそろ優遇措置がもとの原則に戻っていったのかもしれません。それくらい、私には十分すぎるくらいの武器が与えられてしまったのだから。まだ使い方を学びもしないうちに。
しかし神様。どんなささいなサインも逃さないと決めているのは、私が本当はとても弱い人間だからです。それなのにそのサインすらもう、ある記号が回転ずしのレールに乗せられてまためぐってきただけのことなのでしょうか?今ここであなたのしている事はこんな遊び、椅子に座った私の前で自動レールを回しているだけの遊びなのでしょうか?そんなはずがないと、やはり思いたいのです。あなたは、今もそこに居ますか?
神様。私こそ、こんなにも遠く離れてしまったように思います。私は自分の心やイメージを再現してみることにこんなにも貪欲です。あなたの作りたかった本当の世界を再現してみたいと、考えていたのに、です。これは、欲です。こんな人は、至るところにいる。必要かどうかもわからない。それでも、誰かを助けることができると信じてしまって止められないのです。その理由が、自分自身が癒された経験があるから、だからとしか言えないのです。ただ、それだけのことなのに、止められないのです。
「魅了したいんでしょう」と言ってきた人がいます。私はむしろ魅了されたいのですが、その前にもちろん自分自身で確認しなければ、実験しなければいけないと、そうでなければとても恥ずかしいと考えています。「愛されたい」なんて陳腐な気持ちをもっているなんて思っていませんでした。でもあるイメージを再現するために役に立つすべてのことを知りたいですし、教えてもらいたいのです。だって私の中のすべてでは足りないのかもしれないのです。だからまだ生きているのかも、しれないのです。だから出会いたいと思ってしまいます。誰でもヒントをくれる人に。
ここまで書いていて分かったことは、おそらくある一つの希望を、ある一つの有力な可能性を私が殺してしまったときに私の中で何かが死んでしまったということです。私はそれを罪と呼びます。わたしはその死の時、激しい痛みを得ましたし、だから忘れることはしません。でも、神様だけは知っていると、それを肯定するためのあらゆることを私がしようとしていると、知ってもらいたいです。
「もう友達じゃないと思った」と言ったあの子は、とても正直な女の子で、罪が結局は何であるかを私に教えてくれました。その子が、私には歌があるといったあの人の隣に立った時、とてもすっきりとした違和感がありました。それでも私は納得させました。この世界は私が考えているよりももっとシンプルに成立しているものだと。それでも私の背後には、私を受け止める誰かが本当は立っていました。私はその時にもすでにそのことを知っていました。でもそれにも気が付かないように、私は先を急いでいました。彼にも、ずっと安心して眠ることができるベッドを準備してあげたいとそのとき思いました。ずっと眠っていたいと彼がその時に言っていたから。
ずっとあのままもっと祈りたかったです。正確にいうと、心の奥底から祈り続けたかったです。死んでしまった人たちの気持ちが海に落ちて花となることを。幽霊だろうと何だろうと。夜だけれど、それは明るい優しい光です。消して暗闇ではないのです。どうせなら、もっと美しい世界を、夜を描いていきたいのです。とても優しくなりたいです。死ぬまでして何かを伝えてくれたその人の心を、私がみる風景の中に完全に見出すことができるようにしてください。私の目が、見えるようにしてください。耳が聞こえるようにしてください。その時には、私は私の声をおえしします。
2024年10月13日
とても晴れた秋の祝日の朝に
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